さかなのブログ

28歳(女)現在無職 発達障害 アスペルガーグレーゾーン女のブログ

【長文 前編】摂食障害で強制入院した話【中学生時代】

 

今回はいきなりですが、中学時代の話を書いて行こうと思います。

 

理想的には時事系列で過去の話を書いていきたいと考えてたのですが、気分にムラがある私には難しかった...すみません。

 

しかし出来るだけ順番で書いていきたいと思っています。(願望)

 

 

突然ですが、私は摂食障害で強制入院させられた過去があります。

摂食障害になっていた期間は中学生1年〜3年生の春くらいまでです。

因みに私の摂食障害は"痩せたい"気持ちから来るものではなく

"腹痛"や"強迫性障害"が原因でなってしまった、少し変わった症例?です。

そもそも私は学生時代、不登校の期間がかなりあり、中学校の3年間はほぼ学校に行っていませんでした。

不登校が始まったのは小学4年生の頃からでした。

なんで学校に行けなくなったのかはまたお話ししようと思うのでここでは割愛します。

 

4年生から徐々に登校出来なくなり5年生になる頃には完全に不登校になっていた私。

そして、悩み苦しんだ末に6年生に上がる時に学校を転校する事になりました。

理由は学校へ行けない事、母の精神的なストレス、家が貸家だったので元々新築を検討していたなど、他にも理由が重なり引っ越しする事に。

 

すべて新しいものに変わり、少し気分も変わりました。

私も新しい小学校へ通う事になり、人間関係や環境ともに一新し「今度こそ上手くやりたい!」と希望を持っていました。

しかし1年も持たず私はまた人間関係で躓き不登校に...。

原因は発達障害の特性からくるものと、多感な時期なのもあり女子特有のドロドロした人間関係でした。

 

そんな状況で、ストレスを抱えていた私は、それが原因か、よくお腹を壊すようになっていました。

小学6年の時に一度胃腸風邪になったのを覚えています、それが引き金か、ストレスか不明なのですが、それ以降食べるたびに腹痛、下痢を繰り返し続けて

28歳の今も"過敏性大腸炎"に悩まされています。

よくよく考えると長い間お腹の事で悩まされてます。

 

時間も経ち、お医者さんにも治ったから食べて大丈夫だよ。と言われていたのを何故か覚えています。

ですが、私はなるべく消化の悪いものを避けて、ご飯を食べていました。

そんなある日、その頃(小6)の担任の先生がクラスの友達と一緒に家に招いてくれる事がありました。

その先生は私が前の学校で不登校だった事を知っていて、よく気にかけてくれていました。

それもあってか先生と仲良くなり、先生のお家に招いてもらえる程の仲になってました。笑

しかし事件がおきます。

その日は先生が作ってくれたお昼ご飯を食べる事になったのですが、少しお肉を使った料理が出て来ました。

お医者さんに大丈夫だと言われながらもあまり脂っこいものを食べていなかった私。

 

少し不安ながらもそんな理由で断るのも恥ずかしく普通に食べていました。

しかし食べ終わってしばらくしていた頃

急にじりじりお腹が痛くなってきました...。

私はやばい!と感じながらも頑張って耐えていたのですが、一向に治まらず。

ギブアップで腹痛をカミングアウトしトイレへ...

しかし何分たってもお腹がひたすらに痛いだけ

で結局そのままトイレから出て、先生の家てしばらく休む事に。

多分緊張していたのもあったのか、休ませてもらっても一向に治りませんでした。

先生もヤバいと思ったのか私の親に電話を掛けてくれました。

そして両親が先生の家まで迎えに来る事に、

せっかく前から約束して楽しみにしてたのに、、という残念な気持ちに駆られながら

本当にずっと痛くて痛くて

家に帰宅したあともしばらく耐え苦しみ、数時間後やっとトイレに行き痛みから解放されました。

 

多分腹痛に2、3時間は耐えていたと思います。

私は、せっかく楽しみしていた日が台無しになってしまった事、周りに迷惑をかけてしまった事やら後から色々気持ちでかなり落ち込んでしまいました。

そしてこの一件から私は"腹痛"と"食べる"事に対して徐々に恐怖を抱く様になります。

 

それと同時に病気が治ったのに、なんでだろう?

私は病気なのかな、と何度も心配で病院にいく様になります。

でも何度行っても、エコーや検便をしても問題なく

先生にはストレスかな?と言われるばっかりでした。

恐らく私が小学生の頃は"過敏性大腸炎"という病気はあんまり浸透していなかったのかなと思います。

(昔からあったのかな?)

しかしそれから、しばらく腹痛が治っていた時期がありました。

その時はまだ友達とも上手くいっていて、食に関心も薄まり、学校の事でいっぱいいっぱいだった様に思います。

 

そして6年生の秋頃友達関係に悩んでしまった私はまた学校へ行けなくなります。

なんとなくうろ覚えなのですが、恐らくこの時期からまた腹痛に悩んでいたと思います。

 

この頃の私は本当に絶望していました。

新しい環境でもまたダメになってしまい、親にも迷惑をかけ、周りにも呆れられていて

私はどこにいっても、何をしてもダメなんだと"私の人生は結局上手くいかない、もうどうなってもいいや"と自暴自棄になっていました。

(思春期だったのもあり、かなり病みモードでした。)

かろうじて卒業式と中学校の入学式には出席し、中学校も初めの数週間は行っていたと思います。

中学校は他校と一緒になり、結構大きな学校でした。

周りの子は、最初は同じ小学校の友達と固まって、徐々に他校の子と仲良くなっていくという流れでした。私は、しばらく不登校だった事もあり小学校の友達とも距離が出来ていてあまり話す事が出来ませんでした。

 

はじめから1人ぼっちの状態でした。

(私が勝手に思い込んでいた所もあります。)

今思えばもう少し頑張れば友達だって出来たかもしれないと思ったのですが、ショックから立ち直れず。

自分は何しても上手くいかないと"思い込んで"いたので初めの段階で諦めてしまいました。

 

ここから全く学校へ行かなり、本格的に引きこもり始め、精神的に悪化していきました。

親も小学校の頃は無理やり学校へ連れて行ったり、毎日''学校へ行きなさい"と説得したりしていましたが、もうこの頃には呆れられるようになっていました。

 

毎日家にいて、雑誌を読んだりPCでネットをしたり寝たりしていました。

本当に暗かった。

当時はネット=オタク みたいなイメージだったのでネットの世界は自分の様な悩みを抱えている人達も沢山いて、居心地が良かった事を覚えています。

 

そして段々食欲は無くなっていきます。

ここからは少し重たいお話になります。

アスペルガーの特性なのか

私は"強迫性障害"のような思考を常に持っていて、"○○でないとダメだ''と決めつける

白黒思考な所があります。

学校へ行っていた時は

"明日はこの服じゃないとダメだ"

"遅刻しちゃダメだ"

"○ちゃんの約束を破ったからもう嫌われた"

など当たり前な事から自分の謎のルールやら、勝手に思い込んでルールを破ったらこの世の終わりだ、くらいの落ち込みや癇癪を起こしていました。(ヤバい)

なので根本的には幼少期と変わっていません(今も)

日々生活で使っていた白黒思考、学校を休んだ事により、その思考をぶつける矢先がなくなり

自分の体へ向かってしまいました。

 

きっかけはもちろん腹痛です。

私は月に1度くらい2、3時間くらい腹痛に襲われる様になってしまいました。

その原因はストレスだったのか今でもよく分かりません。

病院も行きましたが、異常なし、で大腸カメラは若いからという理由で撮っていませんでした。今思えば調べないのもどうなのかと思いますが...

 

便秘と下痢を繰り返していて長時間の腹痛はとても辛かったです。あんな経験もうしたくありません。

因みに今は短時間の腹痛で治ります。

 

そして次第にご飯を食べなくなります。

脂っこいもの、消化の悪いもの、お菓子

とにかくお腹に良くないものは片っ端から調べました。

 

そして徐々に食べなくなりました。

お腹に良い野菜やヨーグルトを食べる様に努力し、なるべくそれ以外は食べないようにしていました。

 

これが恐らく中1の冬頃かと思います。

でもどうしても我慢出来なくなる時もあり

その時は少しうどんとかご飯とか炭水化物を食べる様していました。

 

ですが、それを食べてしばらくし、また腹痛が襲ってきます。

そうすると私は、「多分あれ食べたからだ」という思考回路になります。

「じゃあもうあれは食べられない」

という風に段々食べるもを消去していきました。

それを繰り返していると徐々に食べ物が無くなっていきます。

 

中学2年生からはヤバくなり始めます。

どんな食生活をしていたかと言うと

 

朝 白米 おにぎり1個分

夜 白米 おにぎり1個分

 

みたいな感じでした。

ただまだ気が向いたらお菓子や他の食べ物も葛藤しながら食べていたと思います。

 

けれど必ずやってくる腹痛。

本当に原因か分かりません

こんな食生活で、メンタルの方も大分ヤバかったです。

 

私は隣の家に同級生女の子が住んでいました。

小学校から一緒でたまに外で会ったら

元気?と声をかけてくれたりしてました。

 

私とは正反対で部活もバリバリやっていて

友達も多くて本当にTHEリア充な子でした。

 

私が辛かったのは土日になるとその子が大勢の友達を呼んで家の前で遊ぶ事でした。

勝手な嫉妬で情けないんですが、家は本当に隣同士なので、嫌でも目に入ってしまいます。

そんなキラキラな青春中学生を見せられるのはとても辛く、土日はずーっと一番家の前の景色がみえない自分の部屋に引きこもっていました。

そしてそれを見た母も

「ほら、皆外で遊んでるよ、あんたも○○ちゃん(隣の子)と遊んできい!」と私によく言っていたのを思い出します。

 

なんか私って生きてる意味あるのかな?

 

段々そう思うようになってきてました。

幼少期から苦しくて転校しても上手く行かなくておまけにご飯も食べられなくて

神様から生きる事を反対されてるんじゃないのかな?

って純粋に思っていました。

(今思えば単純な思考回路だなぁ、幼いなと思います。ですが、危険な思考です。)

そんな感じでご飯を極力食べずに過ごしてると

段々と体重が減っていきます。

 

私は痩せたかった訳じゃないので

"痩せてる"と言われるのが、ご飯を食べていない事がバレそうで怖かったです。

そこで私は冬でも夏でも厚着する様になります。

ズボンをはくなら下に厚手のジャージとレギンスを重ね着して

上はTシャツ2枚は重ね着していました。

とにかく足と腕がガリガリで、半袖は着れず

夏でも七部丈の羽織りものを着て下に長袖のTシャツを着て袖を折り曲げて腕を太く見せる様にしていました。

色々工夫しながら生きてましたね

 

摂食障害は母親との関係が原因で起こる

という風に言われているのをここ最近知りました。

私は痩せたいとか見た目のコンプレックスが原因で起こるものかと思っていたので

腹痛から摂食障害なんて変わった症例なんかなと思っていたのですが

母親との関係に悩んでいたので、これに当てはまるなと気付きました。

 

私は昔から自分の意見を母に認めてもらう事がほぼ無かったです。

なんでも否定されていました。もちろん学校行かなかったり言う事聞かなかったり、普通からかけ離れた事をしてたので、親の反応も仕方ない部分があります。

 

しかし母元々の性格もかなり関係していたと思います。

母はアダルトチルドレンで、今で言う虐待のような環境で育ってきました。

母はよく「父(祖父)から何一つ認めてもらえなかった」と言います。

そっくりそのまま同じ事を私も母に思っています。

 

母は私がご飯を食べられなくなっても、ガリガリに痩せても、メンタルが病んでも

私に心配の言葉を掛けてくれた事はありませんでした。

ご飯を食べない私を見ては「ご飯を食べない○○(私)と一緒に食べるのはこっちが気が重い」と毎食言われていました。

 

痩せた私をみても「細すぎて信じられない」と気持ち悪い物を見るような目で言われたり

よくお母さんの友達に「今○○こんな痩せちゃって服重ね着してるのよー」みたいに茶化されたり

母は昔からそんな人なので自分にとってそれがストレスになっている事に気付いていませんでした。

母は私が悩んでるときいつも関係ない、知らないふりをします。

私の仕事が忙しく、残業が続いて早く帰れなかった時期には「○○(私)が帰ってくるの遅いから家事全部私がやらないといけないじゃん」といわれてました。

 

私が40度の熱で3日間起き上がれなかったときも「早く病院行きな」としか言ってもらえませんでした。

こんなものなんでしょうか

正直比較対象がないので分かりませんが、私はどこかで母に"ここまで苦しんでる私"を認めて、気持ちを受け止めてもらいたかったのだと思います。

 

そして私は中学2年の冬ごろ全くご飯を食べなくなります。

お腹を壊した食べ物が増えて

食べられるものが減ってしまったのと、この頃は"死にたい"と言う思いが強かったです。

 

そんな中私はチューイングという食べ物を口に含んで飲み込まず味わって出す、という行動をよくしていました。

それ以外は飴だけ舐める生活でした。

 

普通にヤバいですよね。

 

一袋の飴を3日くらいかけて食べてました。

しばらく中学2年の2月くらいまで飴生活をしていた様な記憶があります。

 

 

 

後半へつづきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無職のだらけた生活...

 

 

2ヵ月の休職を経て3月末に仕事を退職し

一人暮らしから実家に戻り絶賛ニート生活を送っています。

 

気がつけばもう5月になっている😰

 

1月の半ばから出社出来なくなり、休職に入ったのですが

2月3月は何もする気になれずボーッと一人暮らししていました。

 

3月に退職を決めてからはアパートを引き払って、実家に出戻り、引越し作業をしたり

 

割とバタバタしていたのですが4月に入って

またボーッと、ぼんやりと何も考えず

 

昼に起きて、YouTubeみたり、家事手伝だったり、ご飯買いに行ったり、寝たりを繰り返していて気がついたら5月になっていました。

 

4月の記憶がないです..。

 

2月3月もあんまり覚えていません

 

なによりコロナが流行りだしてからスーパーに行くくらいしか外出もほぼしなくなったので

 

昼夜逆転生活を送って、起きてもダラダラベッドの上でスマホばっかりみて腕が痛いし

 

ここ数ヶ月は久しぶりにだらけた生活を送っています。

そしてこのダラダラ生活からそろそろ復帰出来なくなるんじゃないかと恐怖に陥ってます。😱

 

 

しかし、就活する気力が湧かなくて

次どんな仕事に就いたらいいか考え求人票を見ても、「私は〇〇な所があるからここで働いたらこんなミスをして、また迷惑をかけるかも」と色んな想像をして求人票を見るたびに悪い想像をして気持ちが滅入っていきます。

 

そこで考えるのが、障害者枠で働く事です。

 

数々転職を繰り返して、今までどこて働いてもしっかり仕事が出来なくてずっと肩身が狭いビクビクとした社会人生活を送ってきたので

 

私はもう普通に働くのは無理かなぁと思えてきてしまったり...

 

普通枠にしろ新しいやり方で働いていった方がいいよなとは考えている次第です。

 

ただコロナもあるので就活は難航しそうな気がして仕方ないですが...😣

これから世の中も働き方が変わってくるかもしれませんよね。

 

とりあえず私はしばらく動かない気がするのですが、目標は"今月は就活する"で行きます。

 

あとは体に気をつけていかないとですね。

 

皆さんも体調にはお気をつけください🙏

 

 

 

 

逃げ癖【長文】

 

今回は私の逃げ癖について書いていきたいと思います。

 

(クズっぷりが発揮された内容になりますので嫌な気持ちになるかもしれません、苦手な方はページを閉じてくださいね)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は逃げる癖があります。

これまでも辛い事や都合が悪い事から幾度となく逃げてきました。

今回は前職から逃げたお話を書いていきます。

 

 

 

 

そもそもなんで逃げたのかと言うと

私の仕事の出来なささが原因です。

 

前職は派遣で事務系の職種でした。

派遣された時、同じ職場に私より数週間先に派遣されていた子がいました。(以下Cさんと呼びます。)

Cさんと私は同じ仕事を任されて2人で分担する様にと上司から指示を受けていました。

AとBの仕事を私達が分担する形だったんですが

Aがメインの仕事でBはサブで急ぎではなく、出来ればやっといてね!という感じの仕事でした。

私もCさんもAの仕事は絶対にしないといけないので、2人で分担して作業し先にAの仕事が終わった方が、Bをするという感じに自然となっていきました。

 

 

しかし、私は仕事の効率が悪く、Aの仕事を時間内に全く終わらせる事がなかなか出来ませんでした。

 

なので自然とCさんがBの仕事を1人でこなす流れになっていきました。

 

しかもCさんは仕事が早い...なのでAの仕事も風のように終わらせていました。

 

Cさんには多くの仕事を任せてしまい、私にもイライラしていただろうと思うし、ただただ申し訳なかったと思っています。

 

AとBの仕事を毎日こなすCさん、Aで手一杯になって期限に終わらせられない私

こんな状況ですがCさんは「全然大丈夫なので自分のペースで進めて下さい」と怒るわけでもなく、神の様な対応で本当に申し訳なかったです。

 

そしてある日私は、久々に手が空きBの仕事をする機会がありました。

因みにBの仕事は初めに社員さんから私とCさんと一緒に作業方法のレクチャー受けていました。

 

ですが...

 

久々にBの仕事をする私はどうやって作業するのかほとんど覚えていませんでした...。

 

しかも教えてもらった時から少し作業方法が変わっていたり、そもそもBの仕事ってなんの為に作業するものなんだろうか?という仕事自体を理解していなかったり

 

何が分からないのか分からない!という状況に陥っていました。

 

因みにCさんは、ルールが変わった箇所を事前に教えてくださいました。

しかし私の頭は仕事自体がそもそも理解出来てないし忘却も入ってるし、新しいルールも頭に入らず、ほぼ初めて作業するかの様な状態になっていました...。

 

ですが、久々にする作業を覚えていない事って結構誰にでもあるんじゃないのかな、と思ったりします。(多分)

 

それより私がダメな所は、「久々にするから忘れてしまってる所がある」というのを誰にも言わなかった事です。

所謂 "分かったフリ"をしてしまいました。

 

これが私の仕事を遅くさせる原因の大いなる一部となります。(⚠︎しかし他にも原因はたくさんあります)

 

ですが、この一度教えてもらった仕事をもう一度聞く勇気が出ず

そもそも自分何を分かっていて、何が分からないのか把握出来ていない状況に陥ってしまっている

そして日頃仕事が遅いのにまた同じ質問をしたら「そんな事も覚えてなかったの?」と呆れてられたり、怒られるのではないか...という恐怖心

 

また単純に自分の状況を人に打ち明ける勇気の無さと語彙力の無さから自分の状態や気持ちを上手く伝えられないかも...という恐怖心

 

 

そんな恐怖心に勝てませんでした。

 

そして私が選んだのは

とにかく記憶とメモを頼りに進めていく!でした。

なので結局すごく時間がかかりました。

因みにBの仕事は1件につき大体30分くらいで終わるような内容です。

 

しかし私はこの選択で1件に1時間くらい掛かってしまいました。

 

ですが、私は日頃から仕事が遅いのと、久々にやる仕事だった為、多めにみてもらえたのか分かりませんが、特に何も注意されず。

なんとか終わらせる事が出来ました。

ですがきっと内心うんざりはされていたと思います...。

 

そしてBの仕事が一通り終わり、私はなんとなく疑問点や、分からない所が把握出来てきていました。

 

ですが、私はこの疑問を誰にも聞く事をしませんでした...。

 

なぜなら、「なんで仕事が終わった後に聞くの?」と言われそうだし

 

「分からない事があったらその時に聞いてね」と過去に注意されていたからです。

 

"聞くは一時の恥 聞かぬは一生の恥"

 

みたいなことわざがあったかと思われますが(適当ですみません)

まさにこれですね。

 

私は分からない箇所を気づいておきながらスルーしてしまいました。

これは仕事する上で結構大問題です。

 

そしてそこには「Bの仕事はあまり回ってこないしまぁいいか」

という馬鹿みたいな甘い気持ちもありました。

(最低ですね...)

 

そして一度先送りにした事は段々聞きづらくなっていきます。

私は結局分からない所は聞く事が出来ず、Bの仕事が回ってきたら仕事の意味は理解せず作業だけ覚えてこなすという感じでやり過ごしていく様になりました。

 

要はBが何の為の仕事か理解せずに言われた通りにただ作業しているだけ、、の状態でした。

 

たまにBの仕事でイレギュラーな内容のものがありましたが、(仕事を理解していないと出来ない内容)そもそもCさんの方が仕事が早い為そういった内容のものは必ずCさんに依頼がいっていました。

 

そしてCさんが休みの時は私が代わりにBの仕事をするのですが、何故かイレギュラー的な内容のものは依頼されませんでした。

(恐らく私の仕事が遅い為、避けられていたのだと思います)

因みにBの仕事は社員さんが依頼してきます。

ですがそもそもその日に必ずして欲しいという優先度の高い仕事ではない為、私に頼むと無駄に時間が掛かる為、Cさんにしか頼まれなかったのだと思います。

 

(裏では色々言われていたかも...)

 

そんな騙し騙しBの仕事をこなしていた私。

 

初歩的な仕事内容も理解出来ていませんでした。

しかしもう聞くことなんて出来ません

 

 

そんな状況で転機がきます。

同じく派遣から新人さんが2人入ってくる事になりました。

 

そしてチーム替えをする事になりました。

Cさんは優秀な方だったのでみるみる難しい仕事も任される様になっていき、私達の仕事から離れ、新しい別の仕事を任される様になりました。

 

そして私と新人さん達でAとBやその他の仕事を分担していく事になりました。

 

そしてこの新人さん達が入ってくるまでにもう1人Fさんという新人さんが入ってきております。

 

FさんはAの仕事と別の仕事をバリバリこなしてくれていました。

要は私とFさんとでAの仕事を分担していました。(というかほぼFさんがこなしていました。)

 

Cさんはその間、Bの仕事とFさんの指導、そして新しい仕事を任されていました。

 

そんな中私はなかなか処理速度があがらず、ほぼAの仕事専任みたい感じでした。(専任というと聞こえがいいですね...。😭)

 

そんな状況でFさん、新人さん2人、自分の4人のチームに編成し

 

Fさんが新人さん2人にAの仕事を教え

私がBの仕事を教えるように上司からの指示で決まりました。

 

 

因みにBの仕事はそんなに重要ではないし

内容も一般的に見れば難しくはない感じかと思われます。

 

しかし私、、教えられません

なぜならBの仕事を理解してないから

 

作業だけは教えられますが、

なぜその作業をするのか?

Bはなんの為の仕事なのか?

 

なんて聞かれても答えられない

しかし分かっていないなんて言う事ももう勇気がなくて出来ませんでした。

 

なので教えてあげて下さいと言われて

承諾してしまいました。

 

 

 

ですが、私も毎日Bの仕事をしてた訳ではありません。

しかもイレギュラーな内容の仕事はCさん専任の様になっていたので

私が知らない情報もあるだろう、と思いました。

 

なので勇気を振り絞り、Cさんにその旨を伝えました。

そして教えなければいけない立場になったので、腹をくくり正直にすごーく初歩的で分からない所を伝える事にしました。

(やっと...。)

 

もちろんCさんは呆れてました。

特に何も言われませんでしたが...

私はやっと聞けてホッとしましたが、やはり疑問点を溜めていたので、情報量が多く正直一度聞いただけでは理解出来ませんでした。

 

なんで今まで時間があったのに聞かんかったんや!

というか分かってたフリしてたんかい!

 

とツッコミというか罵声が飛んできそうした。

因みにこの間1年くらいの時間はありました...

 

 

そしてやはり私の知らなかったルールも結構ありました。

ですがそれが理解出来ませんでした...。

私の馬鹿な程初歩的な質問で時間を大分割いてしまい、時間はかかるわ、全然理解してないわでかなりイライラ気味でした。(当たり前)

 

そのあとに知らなかったルールを教えてもらったのですが、Cさんのイライラを感じとってしまい、分からなかった点を掘り下げて質問する勇気がでず、(怖くて)メモも元々苦手ではあるのですが緊張とスピードについていけず、しっかり取れていませんでした。

 

 

そしてとうとう新人さん達にレクチャーする日を迎えたのですが...

私自身が仕事内容をやっぱりちゃんと理解できておらず。

案の定作業方法と流れだけ教えて、新人さん達の質問にはほとんど答えられず、微妙な雰囲気なまま終わらせてしまいました。

 

そして、結局私の実力不足により、Cさんが再度新人さん達にレクチャーする事になりました。

 

本当に自分が情けなくて嫌になりました。

(もう何回目か分かりません)

 

そして、新人さん達にレクチャーをしましたが、しばらくは私にBの仕事が回ってくるという事に決まりました。

 

しかし、、やっぱりやっぱり私はA仕事を時間内に終わらせられない

そして新人さん達もしばらくの間はAの仕事をレクチャーしてもらっている最中でした...(Fさんに)

 

なので結局Bの仕事を裁けず

しばらくの間はCさんにやってもらう事になってしまいました。(結局変わらず)😭😭

 

もう私は逃げたかった、早く辞めたくて仕方なかったです。

 

そしてある日、Cさんが欠勤した日がありました。

もちろんBの仕事は私がしなければいけません。

その日は仕事が少なくBの仕事もしっかり終わらせる事が出来ました。

 

そして次の日Cさんは出勤し、お昼過ぎくらいから社員さんとずっと話をしている感じでした。

 

私は向こうの仕事で何か問題があったのかなぁ

と軽く見ながら自分の仕事をこなしていました。

 

何時間も話し合いをした後、私と新人さん2人以外の同じチームのメンバー達がCさんに呼ばれ、何か説明を受けている感じでした。

 

同じチームの人達が呼ばれていたので、私も呼ばれるのかと思っていましたが呼ばれず...

 

なんとなく不安を感じました。

 

そしてしばらくするとCさんから私宛に上司や他のチームメンバー全員をCCに入れてメールが送られてきました。

 

内容を確認すると

私がBの仕事で結構大きなミスをしている事がわかりました。

メールにはミスの内容と今後同じミスを起こさないように対策を考えたという話と

 

私には一度Cさんから説明を受けているので同じ間違えはしないように、と注意勧告が書いてありました。

 

私がミスした箇所はCさんに注意するようにと一度説明を受けていた箇所でした。

私が見逃していた事と内容を理解出来ていなかった事が原因で起きたミスでした。

 

Cさんからはメールのみの連絡でしたが、チームリーダーや部長とも恐らくその事で話合いされていて

結構大事なのではと思い、直接謝りにいきました。

 

Cさんはかなり呆れた感じでしたが、私がしたミスがどういう影響をもたらすのか説明をしてくれました。

そして「もうBの仕事は気にしなくて大丈夫ですから」と言い放ち仕事に戻っていかれました。

 

私はびっくりして、これってもう"Bの仕事はもうするな"という意味なのかと思いその場でかなりショックを受けてしまいました。

そして語彙力もなく、質問も聞く事が出来ませんでした。

 

そしてとりあえず謝罪をしなければと思い、チームの皆に謝罪のメールを送りました。

 

その後、それまでのミスや自分の能力の低さ、仕事の出来なさで落ち込んでいたのもあり、泣いてしまいました。

 

 

 

なんで見逃したのか、なんで分からなかった所を詳しく聞かなかったのか...

 

 

 

 

そしてある日またCさんが休みの日がありました。

私はヤバイ、、Bの仕事どうしようと

ずっと悩んでいました。

 

私やらない方がいいのかな😣

でも私が今までやってたしやらないとまずいよな...

またミスしたらどうしよう

急ぎの仕事じゃないしCさんに明日やってもらった方がいいのかな...

 

 

とずっとずっとグルグル考えてしまい

 

私はBの仕事を"放棄する"という

最低な判断を下してしまいました。

 

 

 

しかもその日はほとんど仕事がなく

なんでもない雑用をこなしていただけの一日でした。

なのでBの仕事をたっぷり出来る時間がありました。

 

しかし、私は自分が作業していいのか?やらない方がいいんじゃないか?

私がする事全てが間違えてるんじゃないか?

という恐怖心というか自分の挙動や発言すべてがおかしくて間違っていて否定されるものなのではないか?という気持ちに駆られて

 

誰にもどうしたりいいのか等相談できず

明日Cさんがやってくれる、、と思い込んで...

私は仕事を放棄して帰ってしまいました。

 

 

帰る時に上司が私をチラッとみたので

放棄したのを気づいていたと思います。

 

 

そして次の日Bの仕事の資料がなくなっていました。要は誰かが代わりにやってくれていたのです。

 

私は勇気を出して同じチームのメンバーに聞いてみました。

するとFさんがBの仕事をしてくれていた事が分かりました。

 

FさんはBの仕事は初めてで、しかも他の仕事で夜遅くまで残業していました。

その上の私が放棄したBの仕事をしてくれていたのです...。

 

私はやってしまった、、と思いFさんに謝ると「大丈夫ですよ、皆で助け合いましょ」と答えてくれました。

 

やっとここで罪悪感が泉のように湧いてきました。

 

穴があったら入りたい。

ここから逃げたい。

なんでこんな事したんだろう

最低すぎる

また逃げてしまった。

 

 

こんな感情に支配された私

アスペルガーの症状なのか性格上なのか分かりませんが、一つの感情に支配されやすいです。

 

もちろん、こんな状況ですので負の感情に支配されるのは当たり前なのですが...

 

負の感情に支配された私は"逃げたい"というか 気持ちと"また逃げるのか"という気持ちの葛藤が始まりました。

 

しかしそもそも向いていない、この頃の私は気付いていませんでしたがキャパオーバーしていました。

ただ、周りに手取り足取り助けてもらってる状況が精神的に重荷になりかなり自分を責めていました。

 

その疲労からか、周りの「大丈夫ですよ」という言葉からか逃げる方向に走っていました。

 

この「大丈夫ですよ」という言葉は優しさなのか、社交辞令なのか、皮肉なのか

上司から仕事を振ってもらえないのは自分の努力不足なのか、配慮なのか

 

使えない人に時間を費やすのはただ仕事を増やすだけだと思われていたのか

 

仕事が出来ない、人に聞けない、周りに呆れられている、分かってるのにその状況を打破する勇気がない

 

そんな分かって居ながらも出来ない自分に後悔し、更に病んでいくという負の連鎖に入ってしまい。

 

仕事から逃げFさんに肩代わりさせてしまった以来、罪悪感をずっと感じながら出社していました。

 

それからBの仕事は私ではなく新人さんに任される様になりました。

投げ出した自分が悪いのですが、それもまたグサリと心に刺さり

 

私は次第に出社前になると気分が沈む様になり、欠勤するようになりました。

 

行きたくない、と拒否感が出て感情の上げ下げがある時はまだ出社出来ていたのですが

 

頭がぼんやりして、行きたくないと感じ始めた時からやる気が出てこなくなり、罪悪感なく欠勤してしまうようになりました。

 

そのまま私は休職という形をとりフェードアウトする形で辞職しました。

 

 

長い文章お付き合い頂きありがとうございました。

 

まだまだ私の逃げエピソードは沢山あります。

 

今回は逃げ癖のお話し前職バージョンでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大腸カメラ検査 過敏性大腸炎

先日大腸カメラ検査を受けて来ました。

 

なんで受けることになったかと言うと

 

たまに血便??💦と悩んでしまう様な事があり

、それで病院に行った所

 

「じゃ、検査しましょうか?」

と早めに話がまとまったので受ける事になりました。

 

元々私は中学生くらいからずーっと

お腹の問題に悩まされてきました。

 

下痢便秘の繰り返しがほぼ毎日で私の生活は腹痛とトイレがお供な状態です。

しかもここ最近一人暮らしを始めたのがきっかけで体に良くない食生活を絶賛送ってました。

 

ストレスでお菓子をドカ食い

外食三昧

ご飯作るのが面倒でお菓子を食べる

 

とにかく食生活のお菓子率が高い。

外食で脂っこい物が多い。

 

しかも脂っこい物は食べたくないなーと思いながらも流されて外食で食べてしまう状態。

 

とにかく腸内環境は最低だったわけです。

 

そんなことで自分の大腸見たい気持ちが強く受けてきました!

 

 

麻酔のある病院とない病院と選べたのですが

怖いので麻酔ありの病院にしました!

 

検査を受ける前日の夜9時に下剤を飲んで

夜中にトイレ行ってね、みたいな感じでしたが緊張からか全然行きたくならず、朝を迎えました。

 

朝になったら8時半から下剤を飲みます。

モビフレップとか言う下剤で約2リットル飲みます😱😱

 

これがかなりキツイ💦

 

味はほんのり甘くて、苦くて酸っぱいです。

不味くてかなり悪戦苦闘しました。

 

不味いですが、私的には味よりも匂いがダメでした。

匂いはなんか沖縄の海の様な、(海ぶどうみたいな)ビニールの様な、なんとも受け付け難い匂いでした。

 

コップに入れて1杯を10分くらいかけて飲んで

次にまた1杯飲んで最後コップ水1杯飲む

これを3セットは必ず飲んでくださいという内容でした。

 

ストローで飲んで耐えたのですが、全然飲めなくて(1時間に1杯くらいしか飲めなかった)

かなり遅い💦

 

検査は13時半からなのに全然飲めなくて

結局時間になり病院へ...

 

病院で申し訳ないながら飲めなかったのを報告し、しばらく時間延長で飲む事になりました。

(かなり申し訳ない😱)

 

でも結局3セットは飲めず

 

2セット半くらい、約1リットル飲み干した所で

看護師さんからオッケーが出たので

約1時間半くらい遅れて検査しました💦

 

下剤自体は便が完全に出なくなったらストップでオッケーとの事でした。

汚い話ですが、私はトイレ12回くらい行きました💦

 

ただ普段お腹が緩いのと検査受ける一週間前からあまりご飯を食べていなかったので、すぐお腹が空っぽになったのかも。

 

 

そして手術着のような服に着替えて

いざ、検査へ向かいました。

 

麻酔が怖くて緊張しましたが、すごく気持ち良かったです。笑

ただ効きが悪いのか、意識はずっとありました。

始め麻酔を入れられた時はボーっとしましてが完全に起きて

大腸カメラが入って来たのとかは分からなかったんですが、腸の曲がり角にカメラが来た時

一瞬すごくお腹が痛くなって

思わず「いたい!」と言ってしまいました。

 

そのあと麻酔を強めてもらったんですが、意識はあり、なんか寝てるのか起きてるのか分からない、そんな感じでした。

 

そんなこんなで検査は終わりました。

結果は特に異常なしでした!

 

ほっとしたんですが、結局私の腹痛や下痢は原因不明でした。

 

恐らく過敏性大腸炎だと言われましたが、いかんせん腸内は綺麗みたいなので断言が出来ないと言われてしまいました。

結論はストレスじゃないかなーみたいな感じでした。

 

うーん、とりあえずコロネルという薬を飲むとまぁ良い感じなので過敏性大腸炎なのかなぁ

 

といった感じでした。

 

 

【聴覚過敏】大きい音が怖い

 

発達障害の方はよく感覚や聴覚過敏があると言われています。

私も過敏症状がいくつかあります。

とくに幼少期の頃は今より多かったです。

 

まず音がとても怖かったです。

私が特に苦手だったのが打ち上げ花火の音です。

 

幼稚園くらいだったかな...

地元の花火大会があり、親と一緒に観に行った時です。

自転車の後ろに乗せられて遠くから見える花火がワクワクだった私ですが

近くづくにつれて打ち上げ花火の音が大きくなり、段々心臓にドーン!って響いてきて

 

打ち上げ花火の近くに来た途端に音にビックリして

「こわーい!!帰りたーい😭!!!」

という感じでずっと泣きはじめて

とうとう恐怖に耐えられず自転車から脱走!

お祭りの人混みの中を走って逃げて迷子になってしまいました。

 

お母さんは必死で探したそうですが見つからず...

結局たまたまお父さんの知り合いの人が私を見つけて、保護してくださり

そこにお父さんがたまたま通りかかって

なんとか無事に父母の元へ帰還...✨

 

田舎でよかったです。(良くはないが...)

 

かなりお騒がせなやつですが

それぐらい音が怖かったです。

所謂聴覚過敏というやつかと思っています。

皆さんはどうなんでしょう?

これって普通なんでしょうか?

因みに花火の音は大人になった今でも少し怖くて、近くに行くと内心ビクビクしています。

 

他にも私は海などの波の音が怖かったです。

幼少期は波の近くまで全然いけませんでした。

基本的に大きな音はすんごく苦手です。

 

コンサートやライブもちょっと怖いです。

ただのビビリの領域なのか、それともHSP気味なのか、ちょっと分からないのですが、とりあえず今も少し恐怖心があります。

 

 

 

 

 

 

【拘り 癇癪 恐怖心】幼少期のエピソード

 

私は小さい頃から色々と問題児でした。

どう問題児だったか...というと

 

●癇癪の激しさ

●謎こだわりの強さ

●色々過敏で恐怖心が強い

 

とにかく泣いて喚いていた、今思い出すとそんな記憶ばっかりです。

親にはたくさん迷惑をかけました。

(現在進行形ですが...)

まず幼少期はとにかく癇癪を起こしていました。

欲しいものが買ってもらえない時

自分の思い通りにいかない時

外出先でなかなか家に帰れない時

 

事あるごとに泣いて駄々をこねてました。

ただ、幼少期ならこういった行動は誰にでもある事だと思うのですが

私の場合はとにかくしつこくて諦めが悪く

母によく怒られては、わがまま、自分の思い通りにならないとすぐ泣く!といつも言われていました。

駄々をこねる、これは定型発達の子ならある程度で諦める子が多いらしいのですが、私の場合はとにかく言い出したら要望が通るまでとことん聞かない、その日泣き疲れても、また次の日...泣き続けるといった感じで、かなり親を疲労させていました。

とても手の掛かる子供でした...。

 

また強いこだわりもありました。

 

↓こだわり一覧

●ブランコ大好き

●自分の中でいいと思った服しか着ない

●とにかく偏食、好き嫌いが多い

 

その他もろもろ、こだわりは沢山ありましたが

特に目立ったのが上記です。

 

まず、ブランコ!

公園にある遊具のブランコです。

私は幼少期ブランコが大大大好きでした。

恐らくブランコ依存症でした。

 

私は通っていた幼稚園にブランコがありました。

朝早く行ってブランコをして

帰りに幼稚園にお母さんに迎えに来てもらったらブランコして

休日公園に行ったらブランコして

ブランコしたいのに出来ない時には、何時間も泣き弱る。

ブランコがないと生きていけない子供でした。www

あぁ、笑えない

 

服装にもこだわりがありました。

でもこれは女の子なら多少はあるかもしれません。

ただ、私の場合は自分の中で1軍2軍3軍と服のカーストを付けててw

明日は1軍着たい!って考えてたのに3軍しか洗濯されてないから着れない...となるともう幼稚園行きたくないと泣き喚く😭(最低)

なので洗わずに1軍2軍は何日も着たりして、先生にも「毎日その色の服だね...😅」と言われていました。

とにかく私は思い通りにいかない事を受け入れる事が出来ませんでした。

 

そして食べ物にも拘りがありました。

私は幼少期の頃すごーく偏食で好き嫌いが沢山ありました。

現在もですが元々食に関心のない人間で

昔は好きな食べ物しか食べられない子供でした。

好きな食べ物もいかにも子供が好きって食べ物ばかりで、お菓子やラーメン、パンなどが主にでした。

野菜や苦い物、薬などもなかなか飲めなくて苦労しました。

小学校でもお残しは許しまへん!というタイプの先生が担任の頃はほぼ毎日休み時間まで残って食べていました...。

 

毎日大変でした...。

 

エピソードは続々とあり、書ききれないのですが、最後は恐怖心の話です。

私はとにかく怖がりでした。

特に嫌だったのが痛い事や新しい環境

変化や慣れない事もすごく大嫌いでした。

 

これは今でも母に語り継がれ恥ずかしいのですが、私は昔うん○をするのがすごく嫌でした。ww

 

すごく恥ずかしい話ですがうん○をする時おしりが痛くて(なんで痛かったのか不明です。)

とにかくうん○が出来ませんでした。

とにかく痛いのが怖くて苦手で、恐怖心からトイレに行けず、便秘になってました。

汚い話ですが、よくギリギリまで我慢してしまいお漏らししていました....😰

幼少期の話ですが本当に恥ずかしい...🧎

 

この痛いのが苦手関して、私の代表がエピソードがこの話です。恥ずかしい...。

 

あとは注射が苦手で、予防接種など受ける時は恐怖のあまり泣き喚きながら保健所から逃げ出した事もありました。

 

とにかく恐怖心もとても強かったです。

 

恐怖心も拘りもアスペの新しい物事に対する苦手さに共通しているように思えます。

 

これが私の幼少期のエピソードです。

(一部です。w)

 

定型発達の子にも同じような事もあると思いますが、私は幼少期の頃かなり癇癪や拘りや恐怖心が躊躇に出ていたと思います。

親や周りの人にはこの頃から難しいし困った子だなと思われていて、親からはよく怒られていました。

今も幼少期の大変だった頃の話をよくされます。分かってはいますが耳が痛いです...。😂

 

 

 

 

 

 

自己紹介

28歳 女

発達障害 アスペルガー症候群

グレーゾーン

現在無職

1月から適応障害になり休職に入りました。

そして現在の会社を退職する事になりました。

今まで発達障害で苦労した事、やらかした事

経験談などを主にゆるく書いていきたいと思います。

 

よろしくお願いします。🙇‍♀️